播磨国、美嚢郡の首邑として
豊かな歴史を誇る「三木」

 「播州三木染形紙」を語る前に、“三木”という町について少しご紹介しておきましょう。
兵庫県三木市は県の南東部に位置し、県都神戸市の北西に隣接する人口約7万7千人(令和3年現在)の農業と工業の町。神戸市の衛星都市として発展する一方、日本一の生産量を誇る酒米の高級品種「山田錦」の生産をはじめ、かつて日本中で愛用された小刀「肥後守」に代表される打刃物や金物の生産で全国的にも知られています。
 また、市域内を中国自動車道・山陽自動車道が東西に横断するなど、全国的にも交通の要衝として注目され、数多くのゴルフ場が立地するほか、「三木ホースランドパーク」「山田錦の館」「吉川温泉よかたん」「ネスタリゾート神戸」など、豊かな自然と交通の利便性を活かした観光スポットも多く、近畿圏の各地から多くの観光客を集めています。
 さらに播磨国(現在の兵庫県南東部)美嚢郡の中心地としての古い歴史も魅力のひとつ。戦国時代には、東播磨八郡24万石を領した別所氏の居城、三木城の城下町としても知られています。

三木市の位置(クリックで拡大)
三木城合戦軍図』(法界寺蔵)(クリックで拡大)

戦国史に残る一大籠城戦
「三木合戦」の舞台

 三木は、戦国時代の末期、「三木合戦」の名で後世に伝えられる激戦の舞台となった町です。
この戦いは、羽柴秀吉率いる織田信長方と、西国の雄毛利氏を後ろ盾として東播磨最大の勢力を誇った三木城主別所長治方との対立から播磨一円を巻き込んで繰り広げられた戦国史に遺る屈指の合戦。天正六年(1578)三月から同八年一月までの二年近くにわたるこの合戦において、秀吉は三木城を取り囲むように築いた複数の付城を土塁でつなぎ、別所方への兵糧の補給路を遮断する「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めを敢行しました。
 餓死者が続出する凄惨な籠城戦の末、城主別所長治の斬首によって幕を閉じたこの三木合戦の記憶は、勝者である秀吉はもちろん、後世の人々の心にも深く刻まれることになります。

播州三木の歴史 ▷三木の「形屋」と形紙産 ▷京小紋と三木の染形紙 ▷反骨と先進が生んだ独創性