戦火や大火を逃れた都の職人を
受け入れた東播州の地
三木で染形紙を用いた染織業が発達した要因として、三木を含む東播州の地政学上の利点にも注目すべきでしょう。
美術工芸文化の中心京都や商品経済の中心大阪を含む上方に隣接し、文化の面でも古くからその影響を受け続けたこの地域は、「応仁の乱」(応仁元年:1467~)や「西陣焼け」(享保15年:1730)、「都焼け」(天明8年:1788)など、都が戦火や大火に見舞われた際の絶好の避難先のひとつでした。
なかでも商工業を営む者に有利なこの地子免許の地に、命からがら逃げ延びた多くの職人たちが新天地を見出したとしても不思議ではありません。
花の都で活躍した絵師も登場
京友禅や京小紋に三木染形紙の足跡
『小袖雛形本』は、着物の「小袖」に施される図柄(構図)の図案集で、着物の背側から見た文様を描いた図が一頁に一枚掲載された単色木版刷りの冊子。呉服の買い手と作り手を繋ぐ見本帳として当時の流行や染織業者の動向を知る貴重な手掛かりともなる資料です。
この『小袖雛形本』の享保9年(1724)刊行の巻に友禅絵師として播州三木丸山屋有忠・丸山屋甚太夫の作品が紹介されていることからも、この当時すでに三木の染織業者が京都の市場への進出を果たしていたことがうかがえます。さらに、この「丸山屋」を名乗る一統の商印入り形紙は三木で多く発見されており、それらは友禅絵柄の模様が多いうえに形紙に印された商印の中央に太字で大きく「京小紋」と堂々と明記し、加えて左右にも産地名としての「三木」と商人名が配されています。
以上のことからも、播州三木の染形紙は京文化を代表する染織工芸である型友禅や京小紋にも、確かな足跡を遺していたことは間違いありません。