地域の経済を支えた染織産業
三木を代表する名産品「染形紙」
金物と並ぶ三木のもうひとつの特産品が、染形紙でした。上の地図は、延宝年間(1670年代)から大正時代(1910年代)までの約二世紀半にわたって三木市街に実在した形屋の所在地を表したもの。
最古の記録として延宝7年(1679)の検地記録に地所を持つ形屋7軒の存在が明らかですが、これにはすでに屋号を持っていた形屋商人や兼業者、地所を持たない職人達は含まれません。
時代が下って寛保2年(1742)の『三木町諸色明細帳控』(No.63)には、総世帯数783軒のうち、形屋16軒、紺屋26軒、綿繰屋2軒とあり、染織関係の業者が鍛冶屋12軒を上回っていることがわかります。
さらに宝暦12年(1762)に編まれた播磨国の地誌『播磨鑑(はりまかがみ)』には、播州各地の土産物一覧が記載された中で、「紺屋形、三木町ニテ彫之諸方へ売ニ出」と表記され、三木の土産物として、金物ではなく「紺屋形」(染形紙)が挙げられていることも染形紙が三木を代表する名産品であったことの証です。
文化八年三月六日(1811)全国測量中の伊能忠敬一行も三木では形屋に宿泊したことからも、当時の町政に大きく寄与していた三木の形屋の隆盛ぶりが伺えます。
下の地図は、江戸時代三木の形屋の商圏域を表したもの。東海道から山陽道へ伸びる上方の先進地帯を中心に、日本海側の都市や瀬戸内海を超えた四国地方まで広域に取引していたことがわかります。
良質な綿布と藍の産地を背景に
隆盛を迎えた三木の染織産業
播州三木における染織産業の隆盛の要因を考える場合、その素材となる「綿」と「藍」の生産拡大という背景も見落とせません。
[「藍染め」と「形染め」]の項でも触れていますが、日本では16世紀に入ると綿花生産が盛んになり、世紀半ばには木綿衣料が広く普及しはじめます。ことに播州は河内などと並ぶ有力産地のひとつで、国内諸国から大坂への白木綿の輸送量が記された大蔵永常『綿圃要務(めんぽえうむ)』に、天明元年(1786)には播州から70万反の搬入があったと記録されています。
また、姫路藩では文化5年(1808)に播州産の木綿を専売品とすることで品質を管理。特産品としてブランド力を高めることで増収を果たし、藩財政を立て直したといわれます。
一方、紺屋が藍染めの染料として用いた蓼藍は、後世阿波の名産品として広く知られていますが、もともとは播磨と山城(現在の京都府)で栽培されていたもの。実際、三木の紺屋では早くから自家製の藍玉を用いて藍染めを行っていたようです。
それが天正13年、豊臣秀吉による四国征伐直後に阿波徳島へ移封された播磨国龍野城主蜂須賀家政が、播州と気候風土が似た阿波の国でも藍の栽培を奨励。江戸時代に入って藩の庇護のもとで盛んになり、国内随一の藍の名産地として成長しました。藍生産の隆盛にも播州の地が大きな役割を果たしたことがわかります。