太閤秀吉の「地子・諸役免除特権」を獲得
民衆が守り抜いた誇り高い町

 天正八年の三木合戦終結後、天下平定を成し遂げた秀吉は、戦闘で荒廃した三木の町の復興を図るため、地子(地税)免許・諸役(労役や物品税など)免除の特権を認める制札を公布。これを拠り所に、三木は以後東播磨地域の経済の中心として発展します。
 延宝5年(1677)の検地で、この地子免許特権に危機が訪れた際には、代表者二名(岡村源兵衛・大西与左衛門)が羽柴秀吉制札を携え江戸表に直訴。改めて地子免許を認めさせることに成功しました。三木町の本要寺境内にはこの二人を称える弁証碑と秀吉制札や地子免許状を保管する宝蔵が建てられ、「三木の義民伝承」として今日まで語り伝えられています。

地子免許状(三木市有宝蔵文書)
※三木市ホームページより
元禄国絵図のうち播磨国(クリニックで拡大)

天領地や代官支配地で醸成された
自主性に富み自由闊達な風土

 近世の三木は、町方(まちかた:商工地域)十カ町と地方(じかた:農村や山村)八カ町で構成され、そのうち免許地とされた町方十カ町が惣町(自治組織)を形成しました。
 およそ270年に及んだ徳川幕藩体制の下、三木はその全体の約3分の1にあたる84年間が幕府直轄領で、残りの187年間は大名家八家十藩の所領でした。領主が目まぐるしく交代するうえ、遠方に本領を持つ飛び地領であった時期も長かったため、一般的な藩の領地に比べて支配が緩やかだったことが、当時としては自由な風土を育み、多彩な産業が興る背景になったと考えられます。

「三木」の名を全国へ
江戸中期から発達した金物産業

 そんな三木で大きく発達したのが金物産業です。冒頭の三木合戦の後、焼け野原となった三木の町の復興のために、豊臣秀吉は地子免許を与えることで、戦乱によって流出した商人や職人の帰還を促します。
 町の復興のために集まった大工職人、その道具を作る鍛冶職人が次第に増え、三木の町は活気づいていきました。しかし復興事業が一段落すると、大工仕事は激減。18世紀半ば頃になると職人たちはやむなく京・大阪方面へ出稼ぎに行くようになり、近畿一円の寺社建築で活躍します。この際、三木出身の大工たちが持参した道具の性能と品質の高さが仕事先で評判になり、江戸時代中期には『鍛冶の里』としての三木の地位が確立しました。
 金物業の発展にしたがってその流通を専門に担う仲買業者も発生。19世紀初頭には上方を飛び越して江戸へと直接販路を拡大し、三木の金物は全国ブランドへ発展を遂げることになります。

「播州三木打刃物」
※平成8年(1996)伝統的工芸品に指定

播州三木の歴史 ▷三木の「形屋」と形紙産 ▷京小紋と三木の染形紙 ▷反骨と先進が生んだ独創性